貧しさと謙遜

詩篇22:26詩22:26[27] 【文語訳】謙遜者(へりくだるもの)はくらいて飽くことをえ エホバをたづねもとむるはエホバをほめたゝへん 願くはなんぢらの心とこしえに生んことを
【口語訳】貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。
【新共同訳】27 貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
の文語訳に“へりくだるもの”とあるのが口語訳で“貧しいもの”となっており,ゼパニヤ2:3ゼパニヤ2:3 【文語訳】すべてエホバの律法(おきて)を行う斯地(このち)の遜(へりくだ)るものよ 汝等エホバを求め公義を求め謙遜を求めよ 然(さ)すれば汝等エホバの忿怒(いかり)の日に或いは匿(かく)さるゝことあらん
【口語訳】すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。
【新共同訳】主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた/この地のすべての人々よ/恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に/あるいは、身を守られるであろう。
では文語・口語とも“へりくだるもの”ですが,これらは皆同じヘブライ語アナーウから来ています.英語の modest や humble に謙遜と質素との両義があることも側面的な説明になりますが,ことはより深いところにあります.

放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32ルカ15:11-32 11彼はいわれた、「ある人にふたりの息子があった。12弟が父にいった、『父上、財産の分け前をわたしにください』と。父は身代をふたりに分けた。13いく日もせぬうちに、弟はその分全部をまとめて遠い国へ行き、そこで放蕩に財産をばらまいた。14皆使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、彼は困窮しだした。15そこでその国に住むある人に身をよせると、畑へやって豚を飼わせた。16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思ったが、だれもそれをくれなかった。17そこでわれに立ちかえっていった、『父上のところではあれほど大勢の雇人に食べ物が余っているのに、わたしはここで飢え死にしようとしている。18出かけて父上のところへ行っていおう、父上、天に対しても、あなたに向かっても、わたしは罪を犯しました。19もはやあなたの息子と呼ばれる資格はありません。あなたの雇人のひとりのようにしてください』と。20そこで出かけて父のところへ行った。ところが、まだ遠く離れているのに、父は見てあわれみ、走りよって首を抱いて口づけした。21息子はいった、『父上、天に対しても、あなたに向かっても、わたしは罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる資格はありません』と。22しかし父は僕たちにいった、『早く一番よい着物をもって来て着せなさい。手に指輪をはめ、足に靴をはかせなさい。23それから肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おう。24このわたしの息子は死んでいたがよみがえり、失われていたが見つかったから』と。  そこで祝いが始まった。25兄は畑にいたが、帰りに家に近づくと、音楽や踊りが聞こえた。26そこで下男のひとりを呼びよせて、あれは何かとたずねた。27下男はいった、『弟さまがお帰りです。無事に戻ったとて、お父さまが把えた子牛をほふらせなさいました』と。28兄は怒って家に入ろうとしなかった。父が出て来ていろいろなだめると、29父に答えた、『ごらんのとおり、何年もわたしはあなたにお仕えし、一度もお言いつけにそむいたことはありません。それだのに、わたしには友だちと楽しむために山羊一匹も下さったためしがありません。30ところがあのあなたの息子が遊女といっしょにあなたの身代を食いつくして帰って来ると、肥えた子牛をほふるとは』と。31父はいった、『子よ、おまえはいつもわたしといっしょだ。わがものは皆おまえのものだ。32しかし、よろこび祝わずにおられようか、このおまえの弟は死んでいたが生きかえり、失われたが見つかったから』」と。 )で,父のところへ帰った息子がへりくだって詫びるところが絵にかかれるほど印象的な場面ですが,よくテクストを見ますと,遠い国で難渋して,だれも相手にしてくれなかったので父のところを思い出して帰って来たのです.へり下ったのは,貧乏してそこに追い込まれたからで,実際は道学者から動機不純という批判の対象になるでしょう.放蕩息子の兄の抗議(30節ルカ15:30 ところがあのあなたの息子が遊女といっしょにあなたの身代を食いつくして帰って来ると、肥えた子牛をほふるとは』と。 )にもこの点がうかがわれます.たしかに貧しさは絵になりません.

 経済問題に限らず,色々な道に行きつまって,他人にも自分自身にも見離されてお先真暗というときに,ただひとつの道は父なる神の前にひれ伏すことです.イエスはこのような人々を救おうとする神の恩恵をいわれたのであって,はじめから謙遜な悔改めとか回心とか他の宗教にも見られるようなことをすすめられたのではありません.それで彼は放蕩息子の兄のような律法主義者によって十字架につけられたといえます.謙遜は神との関係をつけます.そうしますと,そこへ導かれるために備えられた貧しさも恩恵として感謝し得ると思います.それがいわゆる貧しさに終らず,万物の創造主という最高の富の持ち主の保護を受けるという秘義があります.初代の信徒が自らを貧者と呼び,復活のイエスを中心にして互いに助け分けあったことをあらためて考えたく思います.