弱さの接点 |
使徒パウロは地中海の文化世界を東奔西走してキリストの福音をひろめた大伝道者であり,彼の活動には世界史的な重要性があることは今さら申すまでもありません.しかし彼の宣教の実態を彼自らが書いた手紙によって見ますと,はじめから大計画があったのではなく,肉体が弱って行きつまったときに本当の福音が伝わりはじめたのでした(ガラ4:13以下ガラ4:13以下 13ご存じのとおり、はじめ福音をお伝えしたのはわたしの体が弱っていたためでした。14しかしあなた方はわたしの体について誘惑があったのに、いやしめず唾せず、神の使いのように、キリスト・イエスのようにわたしをお迎えでした。 ;Ⅰコリ2:3Ⅰコリ2:3 わたしは弱さと恐れと多くのおののきのうちに、あなた方のところへ行きました。 ).よそ目にも見ぐるしい弱さでしたが,弱いもののために自ら弱くなって十字架につかれた救い主が示されたのです.そのような状況のうちに福音に接した人々はさいわいでした(ガラ4:15ガラ4:15 それなのにあなた方のさいわいは今どこにありますか。証言しますが、あなた方はできることなら目をくりぬいてわたしに与えようとしました。 ).新しい幸福感に目ざめたのです. ところが,その弱い人々が全能の神の力を受けて立ち上がりますと,いろいろな問題が起きたのでした.信仰がなくなったのではありませんが,ユダヤ人と異邦人とは別のほうがいいとか,偶像崇拝との妥協もやむをえないとか,結局弱いときに必要な十字架中心の福音から外れていったのです.富とか学問とかの文化現象を弱いものへの恩恵として受けずに,それら外面的なものに心引かれて集まる人々には常に問題は絶えませんでした.パウロが常に弱いもののための福音を各地に説いたのが初代キリスト教の基本線になっています. 福音のもとはイエスです.弱いもののために奉仕し,苦難と十字架の生涯を送った彼に,弱いところで接しうるものはさいわいです.同じく弱い人々とイエスを通してこの世ならぬ交わりが恵まれます.そして弱さに終わらず,全能者の創造の御業に招かれて,万物を神の子とともに賜わる(ロマ8:32ロマ8:32 おのがみ子を惜しまずにわれらすべてのために死に渡された方が、どうしてみ子といっしょに万物をわれらに恵まれないでしょうか。 )という新しい方向への接点がそこに置かれています. |