美のありか

 ある地方の人々と久しぶりに聖書の研究をした夕べのことです.数十名の来会者はいろいろな職業の人や主婦・学生など老若男女雑多でしたが,皆が聖書の真理を求めて静かに学び,散会後も一つ家族のように語り会いました.その中に眼をいためて失明に近い老紳士もありましたが,その顔はよろこびに輝いていました.

 話は尽きなかったのですが,あくる日仕事に出る人のことも考えて家路につくことになり,老紳士も杖をたよりに帰り支度をはじめました.そのとき,看護に献身する姉妹が駈けよって助け,もうひとりの姉妹が荷物を持って付き添い,3人が静かに一歩一歩進んでゆきました.庭の木立から浮き彫りにされたその後ろ姿の何と気高く,敷石を踏むその足取りの何と諧調に富んでいたことでしょう.玄関に立って見送る人々は皆老紳士の無事を祈るとともに今日まで同じ信仰に導かれた感謝でいっぱいでした.厳粛な静けさのうちに,犯しがたい霊感があたりを覆っていました.それとともに光景全体に温かい美しさがありました.集まりの讃美歌の余韻とともに,天使の群れの合唱が聞こえてくるようでした.

 われらの罪を負って十字架についてくださったイエスは,今復活の主としてわれらのうちにいますことがこのような形で示されたと思います.

天地創造のはじめに,光あれ,といわれた神が光を見てよしとされた(創世1:4創世1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、(新共同訳) )とありますが,この“よし”と訳されたヘブライ語のトーブは美しいとも訳せます.ギリシア訳もそうです.善と美の区別をこえる世界といいましょうか,罪をゆるされて神によしとされるものにはこの世から隠れたところで真の美が示されるのでしょう.キリストの来臨による新しい創造の形がここにも見られると思います.