救いのはじめは今ここに

 救いの状態,ことに死後どうなるかについてはだれでも大きな関心を持つものです.若さにあふれていてもいつかその問題にぶつかります.病気や事故や肉身の死に直面しますと,このことをいいかげんにしておけませんし,現代の疫病といわれる精神障害もこの点の悩みに起因することが多いのです.

 われわれは救いというものを極楽往生して蓮のうてなにあぐらをかくという仏教の思想と混同しがちです.ギリシアにも,雪も嵐もなく大海のいぶきの吹くところに安らかな日々を送るという理想郷の空想があります.いわゆるユートピア思想は,社会主義のそれをふくめて,これらと大同小異です.それを夢みて現在をあきらめる人,それを目ざして熱狂的な活動をする人,そのあせりで挫折感に苦しむ人など様々です.

しかし聖書は現状を重んじています.イエスの教えの中に,人間は死後よみがえるときに天使のようになる(マル12:25マル12:25 死人の中から復活するときは、めとりもとつぎもせず、天にあるみ使いのようである。 )といわれていますが,これはユダヤ教その他で死後の世界の空想が発展されたのに比して極めて冷静です.最後の日がいつ来るかも神のみ知りたもうとされています(マル13:32マル13:32 その日その時はだれも知らない。天のみ使いたちも子も知らず、父だけが知りたもう。 ).

 この世の問題のもとは大抵人間性の弱さ,すなわち罪にあります.その罪からの解放のために罪なくして苦しみ,十字架についてくださった神の子に出会うところに救いがはじまります.そして死後の様子や他の人々の運命などすべて救い主に委ねるよう導かれるものです.救い自体が未完成である現在に,未来の完成への希望に生きうるのが救いのはじまりです.

“神の国はあなた方のうちにある”(ルカ17:21ルカ17:21 また、『見よ、ここに』とか、『あそこに』ともいえない。見よ、神の国はあなた方のうちにある」と。 )とのイエスのことばは,現在苦しむものへの慰めであります.