
宮のない世界を求めて |
このごろはそれ程でもありませんが,前にはよくいわれたものです――ひとり聖書を学ぶといっても,それでは危険ではないか,専門の宗教家が教義や伝統によって司る礼拝に出て儀式を共にし,交わりをした方がよくはないか,等々. われわれは人々から苦しめられ,この世の恐しさに打ちのめされ,自分自身の無力を見せつけられて行きつまったとき,人間の罪を負って十字架について下さった神の子によって救われると書いてある本に親しんで無条件に神の愛を受けることができます.友から裏切られても,病床に釘づけにされても,親しいものに先立たれても,このよろこびは何ものも奪う力を持ちません.ただ不思議なことに,何か月か何年かひとり聖書を学びつづけますと,何らかの形で交わりが与えられるものです.形は貧しくとも,讃美の心に満たされた礼拝もできます.隠れた社会的実践も恩恵として許されます.キリストの御名を口にせずとも,救いのよろこびは家庭や職場で何時か表現されます.それには長い年月がかかるものですが,ことは永遠に連なるのでその場限りの伝道や儀式とは違った表現形式をとるのでしょう.聖霊の伝達です. 先ず人間同士横につながってそこに神を迎える宗教でなくて,恩恵を上から与えられたものがその縦の関係を保たれたまま結ばれてゆくところに聖霊の交わりがあるといえましょう. 完成された神の国には宮がない(黙示21:22黙示21:22 わたしは都で宮を見なかった。主なる全能の神と小羊がその宮である。 )というのは,宗教につきまとう問題からの解放を意味します.われらに与えられた恩恵の実例の数々に励まされつつ,淋しい魂に隠れたところで福音をささやきつづけたく思います. |