思いあたること

 昭和のはじめのころです.旧制第一高等学校(東大教養学部の前身)の入学試験に合格して間もない若ものが数名連れ立って母校の府立一中(日比谷高校の前身)を訪れ,校長室で学校や先生方の悪口を激しい調子でいい散らかして引き上げるという事件がありました.

 わたくし自身高等学校へ入りまして何か月かしましてから,抱負をもって上京した新入生が幻滅の悲哀をヒステリックな声で訴えているのを聞きました.夕方の本郷通りには敝衣破帽で寮歌を高唱する連中の高下駄の音がしたものです.

 そのころ,ある親日家の外人教師が,日本の高等学校の若ものは生意気で困る,教員の持ち時間が多くて待遇が悪いのが問題ではないか,というのを聞いたことがあります.

 世の中には快楽主義が横行する一方軍国主義が頭を持ち上げはじめ,まじめな学生の多くがマルクシズムに心引かれていました.

 罪の意識なしで自らを神格化する人々の構成する社会では,絶対と相対,全体と部分の区別もなく,子弟も甘やかし放題ですから,ちょっと入学試験に合格すると天下を取ったような錯覚に陥るのでしょう.その反面,幻滅が暗い挫折感や精神障害をおこすのです.幻滅は自己神化による感謝の欠如です.

 敗戦という大きな犠牲を払ったにもかかわらず,半世紀後の今日多くの似たことがあるのは放置できません.罪の人間として義の神の前にひれ伏すか否かに人生と社会のすべてがかかっています.戦前目覚めた諸先達の預言者的警告に従って,われらも聖書を新しく読みなおしましょう.そこに究極の慰めを汲みつつ,多くの暗い魂に明るい福音が伝わるよう祈ろうではありませんか.