愛の暗黙

 老いてますます頑固な人もありますが,年をとると円満になる,とはよくいわれることです.怒ると疲れるし,血圧が上がって身の危険を伴うから,あるいは,角を立てると子どもが大きくなったときに親のうらみをはらされて困るだろうから,などといってじっと辛抱している老人もあります.前者は自己保存のため,後者は種族保存のためであり,いずれもいわば本能による規制です.とにかく怒ったら損,という打算的な禁欲ともいえましょう.

 しかし,何十年と聖書を読みつづけるものには別の面があります.人間的な努力で修養をして円くなるのではなく,日常接する人々や世の中の動きを観察する目が与えられて静かになるのです.人が尊いと思うものに価値がなく,朽ちないで永遠に残るもの,すなわち人を生かす愛の力が判断の中心になります.そこに神の義の法則が昔も今も変わらずはたらいていることがだんだんわかるのです.

 このような目で若い人々と共に学びますと,彼らを災いから守ることができ,怒らねばならぬ不祥事を未然に防ぐこともできます.それに,一時つまずく人があっても時がたてば事がはっきりして解決するという確かさが身についてきます.その時の長さは若いころとはちがってだんだん短く感じられるものです.

 老いて死が近づきますと,永遠の世界の次元でものごとを見るように導かれるのは不思議です.死人に口なしとは沈黙の雄弁と解することも可能です.

 黙って十字架につかれた救い主の愛によって罪の苦しみから解放されるものは,受けた愛による暗黙のうちに伝達ができるのです.旧約的な怒りから新約的な救いへの線が信ずるものの生涯においても示されるのでしょう.