弱さゆえの痛み |
年があらたまって間もなく,急に歯痛におそわれました.夏には図らずも海外へ行かねばならなくなり,帰ってから勤め先の仕事も増す一方でしたが,どうやら無事に年を越せました.あちこちしているあいだ痛みがなかったことをありがたく思います. さて,歯痛など他の病気に比べればものの数ではないのですが,弱い肉体にはこたえます.そして,痛みのときよく思うのは,痛みは指数であらわされるものでなくて,痛いと感じるその人の状態である,ということです.丈夫な人からそれぐらいなことと笑われても痛い人には痛いのです.弱ければ弱いだけ痛さもひとしおです. イエスも激しい誘惑と戦いながら“心ははやるが体は弱い”といわれました(マタ26:41マタ26:41 目覚めて祈れ、試みにあわないように。心ははやるが体は弱い」と。 ).それでこそ弱い人の救い主です.旧約で描かれる主の僕も“悲しみの人で病を知るもの”でした(イザ53:3以下イザ53:3以下 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。(新共同訳) ).イエスを信じて救われたパウロも肉体の刺の痛みが絶えず,弱さに苦しんだ人です(Ⅱコリ12:9Ⅱコリ12:9 しかし主はいわれました、「わが恩恵はあなたに足りている。力は弱さのうちに全うされるから」と。それで、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いによろこんで弱さを誇りましょう。 ). 弱さゆえの痛みに打ちのめされた時聖書が迫力をもって慰めてくれるのは,弱い人の救いが聖書の中心問題だからです.そして,聖書を学ぶ弱い人同士が集まるところに真のエクレシアがあります.そこでは弱さの痛みが放置されず,それを上回る力で覆われてゆきます.イエスが病人をいたわり,病者パウロも弱さのうちに満ち足りる恩恵を受けて力強くなりえたのでした. 御利やく中心の宗教によらず,弱さゆえの痛みという,人にはいいえない隠れたところに恩恵を示されるさいわいこそ神の国に通じるパイプといえましょう. |