再び痛みについて

 前号で痛みについて書きましたが,あるお医者から,痛いと感じるのは神経が生きているからで,それはお若い証拠です,といわれました.わたくしを慰めるためでもあったのでしょうが,このことには深い意味があります.

 痛みが体の弱さのゆえであることは否定しえませんが,痛みを感じる神経が老化ないし死滅すれば痛みがなくなるのも事実です.ついでながら,自覚症状のない病気が危険といわれるのもこれと似た点があります.

 さて,すべての罪も弱さのゆえであることを思いますと,罪の痛みに苦しみ,罪のゆるしを願う心にも,痛みを感じるよう恩恵の力がはたらいているのではないでしょうか.

自らを正しいとするパリサイ人よりも,罪を悔いる取税人のほうが神に正しいとされる(ルカ18:9以下ルカ18:9以下 9また、自ら正しいと思い込んで他人を見さげているものどもにも、次の譬えを話された、10「ふたりの人が宮へ祈りに行った。ひとりはパリサイ人、もうひとりは取税人であった。11パリサイ人は立ってひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人々のように盗み不正、姦淫せず、また、この取税人のようでもないことを感謝します。12週に二度断食し、収入全体の一割の税を納めます』と。13取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、ただ胸を打っていった、『神よ、この罪びとのわたしにおあわれみを」と。14わたしはいう、義とされて家に帰ったのはこの人で、あの人ではない。だれでも、自らを高めるものは低められ、自らを低めるものは高められるから」と。 )というイエスの教えは,悔い改めを救いの条件とするのでもなく,罪そのものを是認するのでもありません.罪の痛みに苦しむものが優先的に救いの対象とされ,悔いること自体救いのはじまりであるという福音です.医者を要するのは健康人でなくて病人であり,イエスに招かれるのは義人でなくて罪びとであるといわれる(マタ9:13マタ9:13 出かけて学びなさい、『わが欲するはあわれみでいけにえではない』とは何か、を。わたしが招きに来たのは義人をではなく罪びとをである」と。 )のも同じ趣旨です.

パウロが弱いときに強い(Ⅱコリ12:10Ⅱコリ12:10 それゆえ、キリストのために、わたしは弱さ、侮り、困難、迫害、行きづまりに甘んじます。弱いときにこそわたしは強いのです。 )といい,罪の増すところ恩恵が満ちあふれる(ロマ5:20ロマ5:20 律法が入ってきたのは過ちが増すためです。しかし、罪が増すところ恩恵が満ちあふれました。 )というのも,弱さに打ちのめされて十字架の救いを受けたからです.

 精神にせよ肉体にせよ,弱さゆえの痛みを感じさせる力を与えつつ,それを上回る大きな力で痛みから救おうとなさるのが創造主です.イエスによってこの創造の御わざがすべての人間に及びつつあることがこんな角度からもわかると思います.