洗礼と洗脳

 今から20年近く前のことです.太平洋の両側から日本に押し寄せた宣伝に若い人は失望しつつある,という意味のことを英文のキリスト教年鑑に書いたことがあります.当時は占領下でしたし,まだいわゆるキリストブームが消えないころでしたので内外に物議をかもしたらしいのですが,このことは近ごろますます現実化していないでしょうか.

 心と体の清めが必要なことは旧約から新約にわたっていわれていますが,洗礼という行為が宗教加入の形式として律法化されると聖書的な福音とは違ったものになります.アジアの大陸でキリスト教が閉め出されつつあるから,日本列島を教化の拠点とするためになるべく多く洗礼するなどは,昔のキリシタンを思わせるではありませんか.

 しかし,洗脳はどうでしょうか.汚れた頭脳を洗うことは罪の人間にとって必要ですが,あるイデオロギーの型にはめてその背後勢力の手先にするための洗脳ならば,平和的な日本人の多くが反発するはずです.現状打破はだれも望むところですが,そのためには前世紀以来の唯物論や無神論を含む教条でなければならないとなりますと,律法主義と同じになります.イデオロギーが宗教化したといわれる今日,注意が肝要です.暴力や戦争を肯定するなど危険が迫っています.

われらの国に平和の福音が根をおろして,真の意味での洗礼や洗脳がなされるように願わざるをえません.それには,数千年前の昔からの貧しいものの救いの歴史や無条件に万人が救われるためにそなえられた福音のしるされる聖書が津々浦々で学ばれることが何といっても一番の早道です.このことを“機を得ても得なくても”(Ⅱテモ4:2Ⅱテモ4:2 みことばをのべ伝えなさい。おりを得ても得なくてもそれに努め、あくまで寛容に教えつつ、導き、いましめ、勧めなさい。 )のべ伝えようではありませんか.