食前の感謝

 幼いとき父母が食前に頭を下げるのに感化されたこともありますが,15歳のころ聖書を読みはじめてからは食前に感謝するのが当然と思っていました.しかし,信頼した友には背かれるし,自分もいつまでたってもいい人間になれないし,世の中は乱れる一方なので,人間は罪のかたまりであり,過ぎゆくこの世のあとには永遠の世界が待っていることが少しくわかりはじめまして,そこに慰めを見出しましたが,この肉体が呪わしくなりまして,肉体を養う食事が飢えという不快をしのぐものぐらいにしか思えませんでした.

 聖書に引きつけられつつも暗い何らかが過ぎましたが,ある日,罪のない神の子がこの世に来てくださって,この世で苦しんでいるわたくしのために十字架についてくださったことがわかりました.そのとき,罪にけがれたこの肉体も罪のゆるしの恩恵を受けるために造られたものであることを知りまして,この世に生まれたことを感謝しうるようになりました.その意味から肉体を養っていただけるありがたさを感じ,食前に心からの感謝を捧げる気持が与えられたと思います.

 それに,戦時中ヨーロッパで空襲の危険や食料難にあつたとき,今日も神は養ってくださるという感謝を学びえました.

 罪は今も消えませんが,このままにゆるされ,そのゆるしのよろこびを人に伝えるために罪の肉体も用いられることを思いますと,感謝も倍加します.

 すべての罪にかかわらず神はこの世で救いを始めたもうがゆえに,完成する神の国のすばらしさへの希望も増し,さらにそれによってこの世での感謝も増してくるのは不思議です.