信仰と希望と愛とは有名な愛の讃美歌の終わり(Ⅰコリ13:13Ⅰコリ13:13 今残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。しかしこれらの中で最大のものは愛です。 )にもローマ書(5:1以下ロマ5:1以下 1かく、信仰によって義とされて、われらは神に対して平和を得ています。これは主イエス・キリストのおかげです。2彼のおかげでわれらは今立つところのこの恩恵へ信仰によって入れました。そして神の栄光への希望を誇りにしています。3そのうえ、苦難にあっても誇ります。苦難は忍耐を、4忍耐は訓練を、訓練は希望を生むことを承知ですから。5この希望は恥をかかせません。われらに与えられる聖霊によって神の愛がわれらの心に注がれるからです。6キリストは、われらがなお弱かったときに、時をたがえず、不信のものたちのために死んでくださいました。7義人のために死ぬものはほとんどありません。善人のためには、あるいはいのちを惜しまぬものがあるでしょう。8しかし、まだわれらが罪びとであったときに、キリストがわれらのために死なれたことによって、神はわれらに愛を示されました。9まして、彼の血で義とされた今、彼によって怒りから救われるはずです。10敵でありながらみ子の死によって神と和解したのならば、まして和解したわれらはみ子のいのちによって救われるはずです。11そのうえ、主イエス・キリストによって今和解を受けたわれらは、彼によって神を誇るのです。 )にもコロサイ書(1:4以下コロ1:4以下 4それはあなた方のキリスト・イエスへの信仰とすべての聖徒に対してお持ちの愛を聞いているからです。5このことはあなた方のために天に貯えられた望みによります。それはあなた方に伝えられた福音の真理のことばのうちにお聞きのものです。6これは全世界にそうであるように、あなた方のところでも実を結んで成長しています。それは神の恵みを聞いて真にそれをお知りになって以来のことです。 )にも出ますし,この三つ中の二つが組み合わさる場合もあり,また各々がパウロの書簡の中で重要な位置を占めています.これらはキリスト信徒のあり方とか心構えとかにされやすいのですが,聖書は果たしてそういうでしょうか.
信仰は人間が信じて仰ぐという行為ではなくて,原語ピスティスはまことという意味です(ロマ3:3ロマ3:3 それはどういうことでしょう。あるものが不信であったとしても、その不信は神のまことを無にしますか。 ).人間はまことでなくても神の子イエスが最後までまことを貫いて十字架上に血を流してくださったので彼のまことによって救われるのです.人間は信じることができず,信じるよう追いつめられるときに,不信のまま信じますといった病児の父(マル9:24マル9:24 その子の父はすぐ叫んだ、「信じます。不信のわたしにお助けを」と。 )のように告白せざるをえません.
希望も人間の打算による目標ではありません.それはまちがって絶望に落ち込ませます.真の希望は天に貯えられたもの,神のところにあるもので(コロ1:5コロ1:5 このことはあなた方のために天に貯えられた望みによります。それはあなた方に伝えられた福音の真理のことばのうちにお聞きのものです。 ),イエス・キリストがすなわち希望です(Ⅰテモ1:1Ⅰテモ1:1 キリスト・イエスの使徒パウロから、われらの救い主にいます神と、われらの希望にいますキリスト・イエスの命によって、 ).人間が絶望の闇に閉ざされても,神の子を通じて天来の希望が与えられるのです.
愛もわれらが神から離れていたときに,神の側から神の子を殺してわれらに注がれてきたものです(ロマ5:1以下ロマ5:1以下 1かく、信仰によって義とされて、われらは神に対して平和を得ています。これは主イエス・キリストのおかげです。2彼のおかげでわれらは今立つところのこの恩恵へ信仰によって入れました。そして神の栄光への希望を誇りにしています。3そのうえ、苦難にあっても誇ります。苦難は忍耐を、4忍耐は訓練を、訓練は希望を生むことを承知ですから。5この希望は恥をかかせません。われらに与えられる聖霊によって神の愛がわれらの心に注がれるからです。6キリストは、われらがなお弱かったときに、時をたがえず、不信のものたちのために死んでくださいました。7義人のために死ぬものはほとんどありません。善人のためには、あるいはいのちを惜しまぬものがあるでしょう。8しかし、まだわれらが罪びとであったときに、キリストがわれらのために死なれたことによって、神はわれらに愛を示されました。9まして、彼の血で義とされた今、彼によって怒りから救われるはずです。10敵でありながらみ子の死によって神と和解したのならば、まして和解したわれらはみ子のいのちによって救われるはずです。11そのうえ、主イエス・キリストによって今和解を受けたわれらは、彼によって神を誇るのです。 ).
このように,信仰も希望も愛もすべて神の側からの恩恵であり,人間はそれを受ければよい,というところに真の慰めがあります.与えられたこの恩恵がわれらの中にはたらいてわれらを動かすとき,人から信ぜられず,望みをかけられず,愛されずともその人のために祈る心が与えられて,神の国へと導かれるというさらに大きな恩恵が与えられるものです.
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