冬の芽のように |
はじめて聖書に接しえてから40年をこえますが,このごろその魅力が増す一方です.理由は聖書が神の温かい愛を示してくれるということに尽きますが,これをわからせてくれる事実が次々におきるのです.まず,聖書を共に学んだ若い友人たちが,学問や生活に苦しみながらも,救いの希望による心身の平安を与えられて,地味な,しかし人間味のある道を感謝をもって歩んでいる諸事実を挙げねばなりません.教えた人々から暗黙のうちに与えられる教訓は雄弁です. それに,歴史学や考古学の発達が聖書の背景を明らかにしてくれまして,前には否定されがちであった聖書の歴史性も今日では大幅に肯定されていることも強みです.旧約の史実にひそむ貧しく小さい民の救いの原理,新約にあらわれる貧者・病者の福音的解放など,今日いかなる書物も及びません.また,人文・社会・自然の諸科学が曲がり角に来ていまして,学界共通の大問題として人間のあり方がとりあげられつつあります.これこそ聖書の提起し,また答える問題です.謙虚にそのテクストに親しもうという意欲に満たされるしだいです. さらに,政治は乱れ,国際関係は複雑化し,物価は上がり,犯罪や事故や公害は増し,医薬に不信感がつのるなど,不安がわれらをとり巻いている現状も,結局人間の罪の結果です.聖書の示す神の愛以外に解決の道はありません. 雪や氷に閉された冬の芽が春を待ちつつふくらむように,冷たい現代に聖書を与えられたわれらは,その中に示される救いへの希望に胸をふくらませようでは.ありませんか. |