われらは無責任か

 昭和のはじめのころです.旧制高校で三谷隆正先生を囲む数名の集りがありまして,聖書などの勉強ののち歓談するのが常でしたが,ある生徒が“無教会って無責任だと思いますが……”と発言しました.そのとき先生はすぐきっぱりとした口調で“たしかにそうです.僕もこれでいいのかなとときどき考えます……”とお答えでした.当時ティーン・エイジャーのわたくしは,学友の無遠慮な質問におどろくとともに,毅然たるうちにも謙虚な先生のお答えに感銘を受けたことが40年後の今日まで忘れられません.

 このような問いは今日も未信者や教会の人々からわれらに投げかけられているのではないでしょうか.なぜ社会的に活動しないか,大伝道をやらないか,等々の注文や期待があるようです.

 しかし,われらは隣人を愛せよという律法を行う力がないからすべてを負ってくださる救い主を信じざるをえないのです.そして彼の力が与えられるときには彼の教えのように隠れたところで奉仕のよろこびに加えていただくのです.勝利はわれらのものという信仰に歩むのです.

昔酷使されていたイスラエル人に対してエジプトの有力者は,彼らが怠けものだから犠牲を捧げにゆく,といいました(出5:8出5:8 しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。(新共同訳) ).日曜に仕事を休んで聖書を学ぶわれらに対する世の人の批判にも共通します.あれこれと働くマルタよりも,じっとイエスのことばを聞いていたマリヤが,よいほうを選んだ,とイエスにほめられている(ルカ10:42ルカ10:42 無くてならぬものはただひとつである。マリヤはよいほうを選んだ。それを取りあげてはいけない」と。 )のもわれらへの慰めです.

 人々から無責任といわれるほどじっとして恩恵を受け,人目につかないところで神のみわざに参加しましょう.