再び平信徒について

 いつも誌友からの音信に励まされていますが,前回の平信徒の世界については長年宗教の重荷に苦しんだ人から温い反響がありました.そして,むしろ平信徒の世界にいることを当然と考えてその安心感の上にあぐらをかいている人に危険を感じる次第です.

 たしかに平信徒にも問題はあります.ちょっと聖書を学んで危い講義をしたり,家庭集会で人的関係が破壊されたり,立身出世した人が自薦他薦の指導者になったり,人物崇拝が行われたり,集団指導が無責任体制になったり,いろいろな例を挙げることができます.

 しかし,このような場合,聖職者の利益を守るための無理がなされえないので,社会通念や倫理感覚によって事が処理されてゆきます.道徳や倫理を促進する真の宗教の力がそこに発揮されるのです.

 今世紀最大の出来事といわれる全教(エキュメニズム)の動きも,分裂その他の問題に対する平信徒の意向が反映されています.世界基督教協議会では平信徒の使命の研究や実践が盛んです.仏教の歴史で,在家の人の意見が用いられるとき活発な動きが見られるのも他山の石です.政治はまつりごとで宗教と共通点がありますが,専門の政治屋が困りもののことは日ごとの新聞に出るとおりです.

祭司ならぬイエスが祭司の職能である神と人との間の調整を達成されたがゆえに真の大祭司であり(ヘブ2:17ヘブ2:17 それゆえイエスは何につけても兄弟に似る必要がおありでした。それは民の罪をあがなうよう、神の前にあわれみ深い忠実な大祭司におなりのためです。など ),パウロもエルサレムの祭司たちとは全くちがう罪びとへの福音を説くがゆえに“祭司のつとめをする”(ロマ15:16ロマ15:16 その恩恵とは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕えるものとなり、神の福音のために祭司の役をつとめることでして、異邦人が聖霊によって聖められ、み心にかなうささげものになるためのものです。 )といっています.われらへの恩恵をあらためて感謝しようではありませんか.