福音的な“信仰のみ”

難行苦行をつづけ,あるいは人間が善と判断するものを積み重ねることが神に近づく道であるという一般の宗教とはちがって,ナザレのイエスはそのようなことができない人々こそまっ先に救いの対象になると教え,人々の苦しみを自らの苦しみとし,敗北と恥辱の十字架への道を歩んだのでした.その彼が神の子として復活し,彼こそ勝利と栄光の君であると信ずるのがキリスト信徒です.パウロが律法の行いによらず信仰(ピスティス)すなわちまことによって義とされる(ロマ3:22ロマ3:22 すなわち、イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずるものすべてのためのものです。そこに差別はありません。 )というのは,信仰するという行為でなく,まことではありえないものが神の子のまことによって義を与えられることです.無条件のまた無限の恩恵です.“信仰のみ”とはこのことです.

 この恩恵を受けたものどうしに交りが与えられるのですが,その人間関係はやはり行為でも状態でもなく,無条件の信仰のみ,すなわちお互いの中にあるキリストの霊の交りです.互いに律法の圧力が加わってゆるしがないならば真の信仰の交りではありません.

 さらに,自らが信仰がなかったときに神の側から愛が与えられたように,未信者へもこの愛の趣旨で接するのが信徒のあり方です.自分だけひと足先に天国へ入るエリート意識によらず,大ぜいのお偉方の後についてそっと天国へ入れていただくような気持でいたいものです.

 このような低いところで,エルサレムの指導者からさげすまれた人々を相手にされたイエスの姿に接しうることはこの世で与えられるさいわいの中でいちばん大きなものだと思います.