
つまずきの赦し |
もう何年も前のことですが,ある学生が長く欠席しましたのでいろいろ調べてみましたところ,わたくしが彼の不勉強をしかったので翌日から発熱したことがわかりました.その後久しぶりに彼の姿を見うけましたので,いたわるように話しかけましたが,わたくしを見るといきなり駆け出して逃げました.少しおくれて卒業はできたのですけれども,わたくしには音信不通です. また別の学生ですが,熱心に聖書の真理を求めて日曜の集りにもきていたのがある人の妨害で遠ざかり,勉強にもいや気がさして郷里に引込んでいるうちに病にたおれ,ついこのごろ亡くなったという知らせを受けました. 肉体として地上に生きていようといなかろうと,この二人の若い友はわたくしから離れて死んでいます.人と人を離す力をサタンのものとした古代の考え方もわかりますが,そのサタンに負けて愛を欠いた自分自身の罪は否定できません. これらのほかにもわたくしの知らないうちに人々をつまずかせていることがあろうとも思います.“わざわいなのはつまずきのもとになる人!”(マタ18:7マタ18:7 つまずきのあるこの世はわざわいだ。つまずきは必ず来る。しかし、わざわいなのはつまずきのもとになる人! )とか“教師たるわれらの受ける裁きはよりきびしい”(ヤコ3:1ヤコ3:1 兄弟方、おおぜいが教師におなりでないように。ご存じのように、われら教師はより大きな裁きを受けるでしょう。 )ということばに締めつけられます.それであればあるだけ,罪のない神の子が十字架上に血を流してくださったから,どんな罪でもゆるされ,どんな罪びとでも彼のように復活しうるという福音がなぐさめになります.そのときすべての人がわたくしにも復活していっしょになりうるという希望が与えられますので,罪を上回る恩恵を今すでに讃美しうると思います. |