踏み絵について

 キリシタン禁制のころ,キリストあるいはマリヤの像を木や銅の板に刻んで踏み絵をつくり,それを足で踏ませて信徒でないことを証しさせたことは周知のとおりで,今日でも九州その他の博物館で多くの人が踏んですりへらした実物を見ることができます.踏むのを拒んで迫害され,世界のキリスト教史を飾るとさえいわれるほどの涙ぐましい殉教物語の数々が伝えられるのも事実です.

 しかし踏み絵は過去のことでしょうか.軍国主義時代の日本でキリスト教に対する圧迫があったことはわたくしも物ごころついてから肌で体験しました.キリスト教国といわれるドイツでナチスが権力を握っていた時に留学して,困難な状況にある人々と親しくしました。

 5年前に大学の一部が暴力学生に占拠されたとき,職場に入ろうとする人にイデオロギーに対する考えをきき,満足のゆかぬ答えをした人は断わられたことがあります.その光景がだれいうとなく踏み絵と呼ばれました.

 権力が強行されるとき,踏み絵はいろいろな形でつきつけられるものです.恩恵によってそれを拒否しうる人はさいわいですが,拒否できない人は果たして永遠の滅びに投げ込まれるのでしょうか.踏み絵を踏んだ人は呪われるというのは,建物の入口でがんばる暴力と似たものがあります.

 ナザレのイエスは踏み絵を踏まざるをえないような弱い罪びとのためにこの世に来られたのです.どんなに罪を犯しても彼の十字架ゆえに呪われないという福音のありがたさが,現代にも,またさらに暗黒の度が増すであろう未来にも明るい光を投げかけているではありませんか.