こわれた人形

 そろそろ物ごころづくころでした.親せきか近所の子どもかは忘れましたが,遊んでいるうちに,こわれた古い人形を,もういらないといって庭に放り出して帰っていきました.首が無事であったのをさいわい,どろまみれの体を洗い,手足は絆創膏でつけ,ばあやの応援で着物をつくろって,どうやら人の形,すなわち人形らしくして机の上に置いておきました.

 しばらくして,前の持ち主が遊びにきましたときに,わたしの人形があった,といって持ち帰ったのです.家のものからは男の子のくせに人形なんて,といわれましたし,幼な心はくやしさでいっぱいでした.この小さな体験は,聖書に接してから新しい意味内容をもってわたくしを慰めまた励ましてくれます.

罪のために汚れた自分が罪のない神の子によって清められたにもかかわらず,その恩恵を忘れて自らを誇り,与えられたものを当然わがものと思ったことが何度あったことでしょう.しかし7度の70倍まで,すなわち無限に罪をゆるす救い主(マタ18:22マタ18:22 イエスは彼にいわれる、「わたしはいう、『七度までといわず、七度の七十倍まで』と。 )によって今も恩恵を受けているのです.このことが少しくわかりはじめて以来,人の見捨てたものに価値を見,前以上にして,それが持っていかれたときに,痛みを感じつつもそれをよろこびたい気持がわいてきます.本当によろこびうるのは来世でしょうが,よろこびたい,よろこべるよう祈りたい気持が与えられるのは恩恵の働きです.

 こわれた人形の体験はわたくしの旧約時代のことともいえましょう.新約に接した今,この思い出を感謝したく思います.