実在のキリスト

 ナザレのイエスが実在の人格であってローマ総督によって十字架の刑に処せられたことの歴史性は非キリスト教的資料からも,パウロの書簡その他からも学問的に立証しうるのですが,イエスが史上に存在した人物であるというだけならばソクラテスその他古代の人物の存在が認められるのと同じです.

 しかしイエスがキリストであり救い主であることは歴史だけでは説明できません.パウロもイエスの存在を知っており,それゆえに彼をキリストと信じる人々を迫害していたのですが,ダマスコ途上倒れてからイエスこそキリストであることがわかったのです.十字架上血を流した彼こそ真のキリストであり,そのいさおしによって罪あるものが救われることがわかってから,キリストはパウロにとって生きた実在となり,またパウロ自ら新しく生きる自覚を持ちえたのです.これはパウロ個人の体験ですが,そのよろこびを多くの人々に伝えますと,愛による相互扶助や祈りによる慰めがなされるなどして異邦人を含む新しい社会的な集団ができ,実在のエクレシアが形成されていったのです.

 この実在のキリストが再臨して万人が救われるという確固たる希望が抱かれ,それによってパウロはじめ信徒が互いに慰めつつ苦難と戦ったのでした.

 旧約をも含めて十字架に至る過去の事実が現在われらを救う実在のキリストを指示し,また現在の救いが過去の事実を生かし,近づく神の国の到来も現在事実として起こりつつあることとして示されるところに,空虚な夢でない確固たる希望に生きる信仰の次元があるといえます.