感謝から愛へ

 ナザレのイエスを救い主と信ずるものは,自らの罪が内外から責められて絶望の真暗闇に閉ざされても,彼が十字架上に血を流してくださったからすべての罪はゆるされ,罪の肉体は滅びても彼とともに復活するという希望が与えられます.そして,神の愛がこのような救いが自分のようなものにまで及んでいることへの感謝がわいてきます.これは,罪という,他人にはいえない,いってもわかってもらえない恐ろしい圧力からの解放の感謝で,きわめて個人的なものです.それには人間のことばでは表現しえないものがあります.

 しかし,このような感謝は時がたちますと個人の中にとどまってはいません.性格や境遇によってその形はいろいろですが,神への感謝は神から受けた愛を他の人にも分かつような意欲を生みます.何も愛の名にふさわしいことができなくても,他の人から責められたときにじっとしていてその人のために祈るだけでも愛のわざです.そのように祈れなくても神の愛は絶えませんが,長い間には祈れるようにとの祈りがきかれるものです.あるいは思わぬ形で人を愛したことになっているという場合もあります.どんなに形は小さくても,愛は対人的ですからそこに社会性への一歩があるといえます.

 このように,福音には個人的な感謝から社会的な愛へ,受け身から働きかけへ,静から動へ,内から外へ,と導く大きな力があります.それは全能の創造主の働きです.いかに無力でも,病床にくぎづけされていても,静かに救いを受けるものは新しい神の国の創造に参加するよう招かれているのです.愛を強いるのは律法主義ですが,キリストの福音は救いの感謝から生まれ出る愛へと導くものです.