沈黙の穴埋め

 大正の半ば,お茶の水橋が関東大震災でこわれる何年か前のころでした.橋のたもとにガス燈があり柳の木がやさしく立っていました.木造の駅は今日から見ますと比較にならぬほど静かでした.当時近くに家がありましたわたくしは,友だちとよくそこへ行って遊んだものです.

 ある日のこと,改札口の駅員が仲よしになったわたくしたちに切符切りをまかせて奥で一服していました.鉄道ごっこのはやったころでしたし,幼な心にあこがれた駅員の仕事ができたので皆大よろこびでした.ところが,いつもはいっしょにならない年上の子が加わってきまして,ある乗客の切符にたくさん穴をあけてしまったのです.無邪気ないたずらですけれども,急を聞いて奥からかけつけた駅員にとっては重大な責任なので,みんな困りはててしまいました.

 すると,じっとしていた紳士風の乗客は黙って新しい切符を買ってきて駅員にはさみを入れてもらって急ぎ足でプラットホームの方へ消えて行きました.子を持つ父親で童心を理解したのでしょうか,急ぐので自腹を切ったのでしょうか,またたく間に事が解決してよろこぶ皆の視線に送られた乗客の後ろ姿がいまだに忘れられません.

 あれから半世紀以上たちました.その間に不思議なお導きによって罪をあがなう救い主に接して今日に至っています.彼がわたくしのあけたたくさんの穴を埋め,黙々としてすべてを帳消しにしてくださるのです.この事実によって幼いころの思い出が生かされ,慰めで満たされます.近づく神の国を目ざして,彼に従いつつこの世の穴をできるだけ埋め,黙々として進みたく思います.