安息の祝福

 いつか日曜の集りで,もしわたしが電車やバスの運転手だったら,日曜の朝強いて休まないで,信徒が無事に集りに行けるよう祈りながら運転台にすわるつもりです,といったらおどろいた人がありました.重病患者の手当てをする医者や看護婦についても同じことがいえます.ナザレのイエスは形式化した安息日の規則からわれらを解放して愛の実践をすすめられたのですから,われらは何曜日でも自由に愛に生きることがゆるされるのです.

 しかし,そのイエスが安息日ごとに律法を学び,また人に教えて,隣人愛の徹底を目ざし,そのために人に奉仕の姿勢をとって真の安息すなわち救いが万人に及ぶようにされたことを忘れますまい.

 20年をこえる経験から見ますと,日曜の集りに出て聖書を学ぶことを中心に毎日の生活を整える人に祝福があり,自らの都合でそれをやめる人は不幸な状態におちいりがちです.

 安息が弱いものに必要であり,弱いものの救いがイエスによって与えられることをいろいろな角度から説明する聖書の研究が人間の価値感を変えて救いへと導くのです.しかし救われてからしばらくすると,与えられた力が聖書に示される神からであることを忘れて自力更生によるとの錯覚に陥りがちです.それで,ひとり学ぶ人も,そういう人の集いでも,まず日曜の安息を中心にすべてを考え,生活の整頓をするところに祝福が伴うと説明しえましょう.弱いもののための安息を基準とする新しい生活が,全能の神による新しい創造に参加するという光栄ある賜物であることをあらためて考えたく思います.