福音の積極性 |
隣人を愛すべきこと,すべての人を隣人と思うべきことを知りながらもそれができないという罪を知ることは苦しみです.そのうえ,自ら気がつかない所で他人をいじめているという恐れもあります.このような罪の苦しみはどんなに自らが善い行いを積み重ねても取り去られるものではありません.熱心な宗教生活も純粋であればあるほど自らの至らなさを示して責めつけてくるものです. このような場合,罪のない神の子が自らの血を流して罪あるもののためにあがないをされたという福音だけが救いです.この恩恵を受けて安心感に満ちた生活を送りうるさいわいは口ではいえません.罪あるまま救われて,汚れた身のまわりもそのまま花咲く楽園になるというよろこびのおとずれです. さらに不思議なことには,こうした無条件の恩恵を受けてしばらくしますと,いろいろな形で連鎖反応が生まれてくるものです.ひとり病床で無為に暮らしていても,信ずるものにはどこか違ったところがあって,医者や看護婦の驚くような平安が恵まれたり,新しい友ができたりします.罪あるものは恩恵を受ける消極的な姿勢にあるのですが,そこに働く聖霊には積極的な力があります.まずひとりひとりが救われ,時と所のひろがりによってそれが何人かになってゆくのです.それは新しい創造です.今の時点でそれが未完成でも,必ず完成の時が来るという希望も生まれてきます.無為にして救われ,しかも全知全能の神の創造のみわざに加わるよう招かれているというよろこびの生活――ここに福音の積極性があるといえましょう. |