説教よりは聖書を

 人前で話をしたあとで,体の疲ればかりでなく,心の不快や寂しさを感じることがよくあるものです.ある有名な西欧の哲学者は,講義の後で自己嫌悪に陥って,しばしば映画館に飛び込んだそうです.これは哲学者個人の思想を,多数の人々の間に通用する言語によって表現しようとする場合に起こる摩擦のためです.内容である思想がそれを表現する形としての言語とかみ合わず,話し手自身に違和感が生ずるのです.日曜に説教する人たちにとって,翌日はブルー・マンデイ(憂うつな月曜)であるといわれています.

 わたくしも講義や講演のあとにいうにいわれぬ寂しさに襲われることがあります.それは上のような不満によるばかりでなく,聖書の真理を受け入れない聞き手が多くて暗黙のうちに反発されるときとくにそうです.

 しかし,日曜の集りその他で気心の合った人々と聖書を学んだあとはちがいます.自分の話は不完全であっても,同じ聖書を学び,真理を示された感謝に満たされるのです.説明がまずくても,聖書の真理が一同の心を開いて,すべての欠陥を補い,口ではいえない温かいもので包まれることができるのです.聖霊のはたらきです.

人間の思想の積重ねによる説教でなく,聖書の本文の研究をという方法が,なぜ祝福に満ちたものであるかがこの角度からもわかると思います.聖書は神の霊に満ちている(Ⅱテモ3:16Ⅱテモ3:16 すべて聖書は神の霊に満ちていて、教え、いましめ、改善、義への教育に益があります。 )と信じた人々が救いのよろこびに満たされたのでした.

 新しいエクレシアのあり方がこんなところにも示唆されているのではないでしょうか.