万人への恩恵

かつて神にそむいた罪ばかりでなく,今も神の欲したもうようなことをなしえないという罪に苦しみ,他の人々からも責められるときに,罪のない神の子が十字架上に血を流してくださったからどんな罪でもゆるされ,彼が復活なさったように永遠の命を与えられる,という福音が救いへと導いてくれます.このようなすばらしい救いを与えてくださる神が自分自身の父にいまし,また天地万有を創造なさった全知全能の神にいますことを信ずるのが信徒です.救いは自らの信仰によるのでなく,神が創造の時から,あるいはそれ以前から決めてくださっているという聖書の予定説(ロマ8:29以下ロマ8:29以下 29あらかじめご存じのものを、み子と像(かたち)を同じくするよう神は予定されました。これはみ子が多くの兄弟の長子になられるためです。30これら予定されたものをばお召しにもなり、お召しのものをば義ともなさり、義となさったものをば栄化もなさいました。 )もこの角度から説明できます.

 救いがすべて神の側で準備された恩恵ならば,たとえ病や事故によって脳を犯されて信仰告白ができず,あるいはうわごとで神を呪っても神は救ってくださるでしょう.

 さらに,自分のようなものが救われるということがすべての点で最低の状況で示されるものには,すなわち自分が最も大きな罪からゆるされていることがわかるものには,他の人が救われないわけがないという全人類の救いへの希望がわいてきます.

キリストによって死者にも福音をのべ伝えられるのですから(Ⅰペテ4:6Ⅰペテ4:6 このためにこそ死者にも福音が説かれたのです。すなわち、彼らが肉にあっては人間として裁かれ、霊にあっては神に従って生きるためです。 ),地上で彼に接しなかった人にも救いの道があります.未信者を見下すのでなく,低いところで彼らの救いを祈るのがキリストによって示される姿勢です.最低のところで自らの罪をあがなってくださったことが全人類の救いという神の創造にむすびつき,それゆえに自らの救いも確かである,という安心に満たされることができます.