啓示の状況 |
モーセは荒野で燃える茨の間から,なんじの立つところは聖所であるから靴をぬげ,という神の声を聞いたと伝えられます(出3:4以下出3:4以下 4主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、5神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」(新共同訳) ).神殿も祭司もないところで直接神にまみえたのです.その後エルサレムやサマリヤの宗教体制が発達して民衆への負担が増したとき,イエスはそれらから解放して,この(サマリヤの)山でもエルサレムでもなく,霊と真で父なる神を拝するときの到来(ヨハ4:21以下ヨハ4:21以下 21イエスはいわれる、「わたしを信じなさい、女の方、この山でもエルサレムでもなく父を拝する時が来る。22あなた方は知らぬものを拝し、われらは知るものを拝する。救いは(われら)ユダヤ人からのゆえに。23しかし、真の礼拝者が霊と真で父を拝する時が来る。否、もう来ている。父もこのように彼を拝するものを求めたもう。24神は霊にいます。ゆえに拝するものも霊と真で拝すべきである」と。 )という福音を告げたのでした. このように旧約も新約も,神殿や祭りなどいわゆる宗教文化とは無関係なところで神を拝しうることを示しています.聖書全体の基本線のひとつである貧しく弱いものへの無条件の救いがこのようなところにもあらわれています. もとより,モーセがエジプトで受けた教育やイエスがヨセフの家庭やナザレの会堂などで得た知識が文化的に高い水準にあったことは事実です.しかしそれらの力が素地となって,文化から遠い状況において神が啓示され,伝達されたことに意味があります.その伝達には文字という文化現象が用いられ,律法としてイスラエルの共同体の建設に役だてられ,さらに福音として地中海世界に広がりました.そこにパウロの学識が新しく生かされた面もあります. 文化が至上視されず,また一部の人の利益のために悪用されず,文化のない人を救いに導くために善用されるときに,それは恩恵の器として祝福されます.至上視された律法からの解放としての福音をこの角度から把握することもできましょう.万物の創造主は被造物を総動員して人間を救いに導きたまいます.福音が貧しさや弱さの中で万人に啓示されることをこのように説明しうると思います. |