
嵐の中に歩むもの |
重い荷を肩にしてけわしい道をたどるものが,文字どおり追い打ちをかけられて,吹きすさぶ嵐の中に立ちすくむとき,頼るは神のみと思う場合が多いのですが,それだけならばどの宗教も大差がありません.苦しい時の神だのみといわれるとおりです.しかし,その神は答えてくれるでしょうか.また,嵐が過ぎて目的地に達し得ればその神は忘れられるのではないでしょうか. 聖書を学ぶものも苦しみの中で神による救いを求めるのですが,すべての苦しみが罪と結びつけられて説明される点が他とちがいます.義の神から離れて自らを神とするところに罪が生じ,罪によって病や苦しみがはじまり,ひいては死にいたります.このような罪がなく,神に従順であり,人の罪を負って苦しみ,ついに十字架上に死した神の子によって,すべての人の罪があがなわれる,と聖書は教えます. 苦しみのもとに罪があること,その罪からのゆるしを受けるのが聖書の示す救いの根本です.神の子が復活したというおとずれも,罪をゆるされるものが新しい命を与えられ,いつか神の子のように罪がなくなり,罪の結果である死から解放され,復活して永遠に生きるという希望が与えられます. 聖書に親しむものは苦しみが止むのではありません.かえって苦しみが増すこともあります.しかし聖書に接しなかったときとはちがって,苦しみが神の子と苦しみを共にするためであるという新しい意味を持ってきて,苦しむものの友になることをよろこぶ生涯へと変わってゆきます. 嵐の中に立ちすくんだものが神の子の声をきいて力を得,同じ状況にある人とともに歩むとき,その歩みは神の国の方向へ導かれているといえましょう. |