
儀式よりは生活 |
聖書の示すように,人間の行為によらず,罪なき神の子の死によって無条件に救われると信ずるものは,儀式という行為からも解放されているのですが,このような解放は洗礼や聖餐を抽象化してただ空漠たる精神的な信仰生活を送っていると誤解されがちです. しかし,教会加入の儀式としての洗礼を受けず,信者の名簿に載っていなくても,心と体の汚れがキリストによって洗われ,彼のごとく清くされるという約束を受けるものは,救いの感謝のゆえに個人と社会の清潔を求める意欲を与えられます.世界の国々で,キリスト信仰の純粋な地方は他に比べて都市も家庭も清潔ですし,われらもそのようでありたく思います. 聖餐も,専任の宗教家によって一定の建物でそれに所属する信者だけが閉鎖的に行われるべきではなく,復活のキリストを囲んで救いを感謝し,神に罪をゆるされるよろこびをもって互いの罪をゆるし,平和といこいを受ける共同の食事であるのが聖書的です.それは何びとにも可能また必要な社会生活の基本線です.パンとぶどう酒という日常の食事の形がイエスによる新しい契約の形として示されたことは,日本では御飯とみそ汁でもいいわけですし,場所もどこでもいいのです. したがって,われらなりの洗礼・聖餐が恩恵の形として与えられているので,抽象化ではなくむしろ神の国の理想に燃えるものの生活での具体化です. 同じことが,神と人とを整える祭司として万人が仕えること,神住みたもうところとして信ずるものの体が宮とされること等々についてもいえます.聖書に示される広く深い真理にこの角度からも感謝をもって接しようではありませんか. |