この世で始まる救い

 何年か前勤め先で経験したことですが,研究室での勉強で帰りが夕方になりますので,助手や大学院の学生が当番でお茶の用意をすることにしました.風邪の予防にもなりますし,談笑のひとときが与えられますのでその習慣はつづいたのですが,番に当たった人は義務感によって機械的に世話をしていたのでした。

 ところが,日曜の集りでは,いろいろ世話をする人の顔つきがまるでちがいます.仕事の手分けはしますが,全体が自発的で,喜びにあふれた顔つきや動作には深味のある美しさがあります.これは氷山の一角で,人生に行きづまった人への奉仕が隠れたところで行われているのです.

 どんなに学問があっても,財産や体力があっても,義務感による生活にはうるおいがなく,いや気が積もれば仕事の能率も落ち,病気になって死への方向をたどります.無学であり,貧しくて弱い体でも,よろこびによって行動するとき,他の人をもよろこばせて皆が生命の方向に歩むことができます.

 それならば真のよろこびはどこから来るのでしょうか.罪のない神の子の死によってすべての罪がゆるされ,彼とともに復活しうるという福音こそこのよろこびの源泉です.

 救いというものを,諸宗教のように空虚な来世の彼方に追いやるのでなくて,この世で十字架につき,この世で復活して栄光を示された神の子によってこの世にはじまる救いとして受けるのが聖書的です.救いの完成は未来ですが,その希望にはこの世で与えられるよろこびの生活という具体的な基盤があることを,身近の体験によって学びましょう.