苦しみについて

 人生には予期しないことが次から次へと起こるもので,そのたびに苦しみも増します.その苦しみを他の人々に訴えますと,自らを苦しめている人を傷つけることになりますし,いったからとて事態がよくならないので,結局黙っているのがいいと自らにいい聞かせたくもなります.それに,あまり苦しくて筆や口で表現できないこともしばしばです.

 また,そもそもなぜ苦しんでいるかを考えますと,結局自分が弱いからといわねばなりません.健康者には軽い荷物も,足弱のものには重荷になります.他の人にはどうであろうと,自分にとっては重いから重い,苦しいから苦しいのです.

 普通の宗教の立場からいえば,大悟徹底していないから苦しみがあるので,信仰すれば苦しみは消えるはずということになりましょう.

 また,自分を苦しめる人の身になってみますと,なにも好んでそうしているのではなくて,周囲の状況や受けた教育のために不自然な立場に置かれた場合も多いのです.

このように苦しみはいろいろな面があるのですが,“しいたげられ,苦しめられても,ほふり場に引かれゆく小羊のように口を開かなかった”(イザ53:7イザ53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。(新共同訳) )という神の僕の預言が実現して,ナザレのイエスが苦難の十字架についてくださったことが結局すべてを解決してくれます.彼は,苦しみが罪による苦しみでも罪あるまま救われる,苦しんでもよいという新しい福音をもたらした救い主です.彼を信じて集まるものの間にこの世ならぬ慰めが満たされるのは,彼の父なる神がまず弱く小さい民を選んで救いたもう方であり(申命7:7申命7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。(新共同訳) ),その救いの御手が神の子によってわが身に及んでいるからであるといえましょう.