いつどこでも信じうる神 |
宗教に帰依する人について,大悟徹底したとか安心立命の境地にあるとかいわれます.それらの人は永遠の哲理を体得した,あるいは森羅万象に触れたとして自他ともに許す場合があります.けれども,それは人間が自分で努力して築き上げた状態であって,それができない人はどうなるか,どうしたらいいか,という問題が残ります. 聖書は,日ごとの生活ばかりでなく自分の命も危うくするきびしい砂漠や強い国の人々にさらされて,人間のはかなさを見せつけられた人々の信じた神のことを語っています.隣人愛を実行しなければ共倒れになる低い状況に生きた人々の動きがそこに見られます. ナザレのイエスはその隣人愛を行う力もない人々をまっ先に救う神を示して自らそのような人々に奉仕したのでした.神は多くのものから見捨てられた人々を救いうる力を持つ方であるという新しい教えがなされたのです. この神はエルサレムでもどの山でもないところで拝しうる神であり(ヨハ4:21ヨハ4:21 イエスはいわれる、「わたしを信じなさい、女の方、この山でもエルサレムでもなく父を拝する時が来る。 ),知恵のあるものでなくて幼な子に自らのことをあらわしたもう神であり(マタ11:25マタ11:25 そのころイエスはいわれた、「感謝します、天と地の主にいます父上、これらのことを知者や賢者に隠して幼子にあらわされましたことを。 ),苦しむものをいつでもどこでも救おうとなさる神であり,いわゆる宗教とは違った状況で信じうる神です.他の人から苦しめられたときその人のために祈る愛の心を恩恵として与える神です. このような信仰はいつでも可能であるがゆえに永遠の長さを持ち,どこでも可能であるがゆえに宇宙の広さにつながるものです.自分のようなものを救いえたもう神ならば全知全能にいます,という低いところで受ける恩恵としての信仰にすべての問題の解決への道があるといえます. |