われらは聖徒か

新約聖書の中に,キリストを信ずるものが聖徒と呼ばれるところがあります(ロマ1:7ロマ1:7 神に愛され、召された聖徒、ローマにある皆さんへ。われらの父なる神と主イエス・キリストからの恩恵と平和があなた方にありますように。Ⅰコリ1:2Ⅰコリ1:2 コリントにある神の集会(エクレシア)へ。すなわち、キリスト・イエスにあって聖められ、招かれた聖徒たちへ、また、至るところで彼らの、またわれらの主にいますイエス・キリストの名を呼ぶすべての人々へ。 など).これは,神がその中に住みたもうがゆえに信徒は聖なる神の宮である,といわれるところ(Ⅰコリ3:16以下Ⅰコリ3:16以下 16あなた方は神の宮であり、神のみ霊があなた方の中に住みたもうことをご存じないのですか。17もしだれかが神の宮を壊すならば、神はその人をお壊しでしょう。神の宮は聖です。それはあなた方のことです。 )などとともに難しい問題を投げかけています.

 人間は罪に汚れており,罪の結果死すものであるが,罪のない神の子が十字架上に血を流して罪をあがなってくださるという福音が聖書に記されています.しかしそれは罪のある人間がそのまま義人と認められるという段階であって,まだ罪の結果としての死があるというのが現実です.ところが,救い主によって与えられる恩恵は救われるものをこの現実の状態で終わらせず,彼のごとく復活させ,罪のない,したがってその結果である死のない永遠の命の世界に導きたもう,という約束を与えています.それは神の国の完成するときすべての人に及ぶのですが,今この約束を与えられたものは,罪がなくされ,死が滅ぼされて義人として聖徒として生きる新しい神の国の人である,というのです.これが信徒すなわち聖徒であり,神が住みたもうがゆえに神の宮である,という意味です.

 罪がゆるされるだけでもすばらしいことですが,そのすばらしさが全能の神のはたらきであることがわかりますと,神は罪と死を滅ぼすことがおできになる方であり,天地万有の創造主であることを信ずることができます.周囲から見放されて苦しんでいるすべての人がこの神の国に迎えられ,自分もその中に含まれているという救いの呼びかけを率直に受けようではありませんか.