恩恵の社会性

 暗い世相や冷たい人の仕打ちに悩まされた末,結局すべての災いは自分の罪のゆえであること,そして自分も他の人々を苦しめていることに気づきますと,真っ暗闇の行きづまり状態に陥ります.そのとき,罪のない神の子が十字架上に血を流してくださったがゆえにどんな罪をもゆるされるという救いの恩恵だけが光として導き,また慰めてくれます.この救いのよろこびのゆえに,他の人々を恨む気にもなれず,むしろ自分に与えられた恩恵がその人々にも与えられるよう祈りたくなるのが救いの一面です.

神と自分との間が平和になるところに救いがはじまるのですが(ローマ5:1ロマ5:1 かく、信仰によって義とされて、われらは神に対して平和を得ています。これは主イエス・キリストのおかげです。 ),それは他の人と自分との間の平和へと発展します(エペソ2:14以下エペソ2:14以下 14彼こそわれらの平和です。彼はふたつをひとつにし、お体によって敵意という隔ての垣をおこわしでした。15彼は規則や条例の律法を廃止し、ふたりを彼にあるひとりの新しい人へと創造して平和をつくり、16十字架によってふたりを神に対してひとつ体に和解させて敵意をお殺しでした。  17彼はおいでのうえ、あなた方遠い人々にも平和を、近い人々にも平和をお伝えでした。18彼によってわれらふたりともひとつ霊にあって父へ近づけるのです。19今やあなた方は外国人やよそものではなく、聖徒と同国人かつ神の家人です。20あなた方は使徒と預言者の土台に建てられ、そのかなめ石はキリスト・イエスご自身です。21彼によって建物全体が組み合わされ、主にある聖い宮へと成長し、22彼にあってあなた方も共に建てられて霊による神の住まいにされるのです。 ).神が人の行為によらず自らの恩恵によって人との平和を保ちたもうように,人と人の間も行為その他目に見えるものによらず,同じ信仰によって結びつけられるというのが聖書の示す社会の根底にあります.すなわち,信仰は神と人との間の深い個人的なところにはじまりますが,その連鎖反応は横に広がって社会的になります.神の国は個人の集団としての閉鎖的な孤立でなく,どんな人でも救われるとして貧しい人や病者への神の愛を示し,それがすべての人に徹底し,すべての人がこのような愛に生きうる社会です.

 根本は十字架ですが,それが個人の救いからはじまり,救われるものどうしはいうまでもなく,まだ救われていないものへも神から受けた愛を示すとき,新しい人間としての道が開かれます.神の子のごとく十字架につけないがゆえに彼に救われる必要がありますが,その救いのよろこびを人にわかつ気持が恩恵としてはたらくところが神の国です.