ボロ蓄論

 内村先生がご健在のころ,近しいお弟子のひとりが,先生はいつもはボロボロだが日曜になるといい音を出す蓄音機と評したことが思い出されます.先生のお子さまから直接うかがったところによりますと,日常ご家庭内で,とくにごきげんの悪いときなど,たいへん怒りっぽい方だったそうです.どなたかが,よく考えてからお怒りになったら,といわれたところ,考えたら怒れなくなる,といって怒られたという話もあります.

先生も人間ですから欠点があるのは当然です.このごろ先生について書かれることが多くなりましたが,先生の偶像化を防ぐためと称してあら探しをして自分の利益を守ろうとする人もあります.それはアルテミス神殿の銀の模型が売れなくなるからパウロが困るといった細工人に似ています(使徒19:24以下使徒19:24以下 24デメトリオという銀細工人がアルテミスの銀の宮を造って職人たちに少なからぬ利益を得させていた。25彼は職人たちと関連の業者とを集めていった、「皆さん、ご承知のとおりわれらが裕福なのはこの仕事のおかげです。26しかるに、見聞きなさるように、エペソばかりかほとんど全アジアであのパウロが、『手でできたものなど神々でない』といって、かなりの群衆を説得して迷わせました。27これでは、われらの仕事が信用を失うおそれがあるばかりか、偉大な女神アルテミスの神殿も無にされ、全アジアまた全世界が拝んでいる女神のご威光さえ失われそうです」と。 ).

 いろいろな誤解や妨害をのりこえて内村先生が日曜ごとに“いい音”で説かれたこととその文字化され,継承されたものは今や全世界的に伸びつつあります.十字架中心の福音,それによる地域の倫理の純化と推進,聖書にもとづく信仰と生活,平信徒の独立等々,これらの進展は日本さらに世界の精神的状況を見れば学問的にも説明しうるものです.

ボロ蓄論はわれらにもあてはまります.少なくもわたくしは平日どころか日曜にも静かながらボロボロの音を出していますが,こんなわたくしに手をのべてくださる救い主と,彼を信ずる友の祈りに支えられて感謝の日ごとが恵まれています.われらの外の人(肉体として外にあらわれているもの)は滅びても,内の人は日々に新しく,というパウロのことば(Ⅱコリ4:16Ⅱコリ4:16 それゆえわれらは気を落としません。たとえわれらの外の人は滅びても、われらの内の人は日々新しくされています。 )が身にしみます.