神を見ること

 信仰に導かれる形は人によってちがいます.困難に直面してこの世に失望し,あるいは,信頼した人に背かれて人間というものが当てにならないことを見せつけられるなどの場合がありますが,何といっても自らの罪を示されて暗黒の中に苦しみ,罪のない神の子のあがないによってそこから救われるものが信仰の本すじです.他人にはいえない苦しみからの解放のよろこびの中に,ただ神とのみその日その日を送りうる新しい生活です.

 そのまま生涯を終わる人もありますが,信仰生活が長くつづきますと,形は違っても同じような信仰の人との交わりが与えられてきます.そこでは罪をゆるしてくださる救い主が中心ですので,互いが互いの罪をゆるし,むしろ罪の結果である苦しみを自分も受けてあげようとする人にも出会うことがあります.そのとき互いの中に人間のわざでなくて神から与えられたものを見ることができます.聖霊のはたらきとはこのことです.

 人に失望し,あるいは人から突き離され,自分にも愛想をつかしたものが救い主によって導かれまして,同じように救われる人との交わりが与えられることこそ,この世に生まれてきたことの意味を示してくれると思います.そうしますとこの世も,この自分も,救われるために神に創造されたことがわかります.

聖書に,神を見たものはかつてひとりもないが,という前文につづいて,ひとり子の神が神を示された,といわれ(ヨハ1:18ヨハ1:18 神を見たものはかつてひとりもなかったが、父のふところにいますひとり子の神だけが彼を示された。 ),同じような前文につづいて,われらが互いに愛するならば神はわれらのうちにいます(Ⅰヨハ4:12Ⅰヨハ4:12 神を見たものはかつてひとりもありませんが、われらが互いに愛するならば、神はわれらのうちにいまし、彼の愛がわれらのうちに全うされます。 )とあることを深く味わってみましょう.