救いと裁き

 新約聖書は,どんなに罪があっても神の子が罪をあがなってくださるから裁かれずに救われるという福音を伝えてくれますが,その新約にも裁きのことがところどころいわれています.

たとえば,イエスの激しいパリサイ批判(マタ23章マタ23章 <学者とパリサイ人批判> 1そこでイエスは群衆と弟子たちに語られた、2「学者とパリサイ人らはモーセの座を占めている。3それゆえ彼らがあなた方にいうことはすべて行ない、また守れ。しかし彼らのわざにはならうな。彼らは言って行なわぬから。4彼らは重荷をからげて人々の肩に置き、自らはそれを指一本で動かそうともしない。5彼らのするわざはすべて人に見られるためである。彼らは経札(きょうふだ)を幅広くし上着の総(ふさ)を大きくする。6彼らが好むのは食事での上座、会堂での上席、7広場であいさつされること、人々から先生(ラビ)と呼ばれることである。8あなた方は先生と呼ばれるな。あなた方の先生はひとりであなた方は皆兄弟である。9地上のものを父と呼ぶな。あなた方の天の父はひとりにいます。10導師と呼ばれるな。あなた方の導師はキリストひとりである。11あなた方の最大のものは僕であれ。12自らを高めるものは低められ、自らを低めるものは高められよう。 )を見ますと,もし自分がパリサイ人であったら裁かれるであろうという不安を感じます.しかし自らの罪のゆるしを求めるものは,自らを義とするパリサイ人と違うから救われるという安心感が与えられますし,自らを義とするものが主導権を握っているのが是認ないし放置されれば罪あるものの立つ瀬がなくなるではありませんか.イエスが,自薦の義人が罪びとは救われないと決めているのを批判し,ついにはわれらの罪のために殺されてくださったことを,この角度からあらためて感謝しましょう.

次に,ヨハネ3:16以下ヨハネ3:16以下 16神はひとり子を賜うほど世を愛された。すべて彼を信ずるものが滅びずに永遠のいのちを持つためである。17神がその子を世につかわされたのは、世を裁くためでなく、世が彼によって救われるためである。18彼を信ずるものは裁かれない。信じないものはすでに裁かれている、神のひとり子のみ名を信じなかったから。19裁きとはこれである。すなわち、光が世に来たのに、人々が光より闇を愛したというそのことである。人々のわざが悪かったのである。20偽りをするものはだれでも光を憎んで光に来ない、彼らのわざが現われないために。21真を行なうものは光に来る。そのわざが神によってなされたことが現われるためである」。 の救いの次にすぐ裁きのことが出るのも気になります.しかし,キリストによる救いのうちに生きるものには,もしその救いがなかったら恐ろしい裁きにあって命をも失っていることが明らかですし,そうした裁きからつねに遠ざけられていることの感謝も増します.そして,世のわざわいが結局は人間の罪のゆえであり,そのことを知らず,また知ろうともしない人々がいろいろな形で裁きを受けているという現実も否定できません.

 救われるものは罪が深くて救いが必要だからとくに恩恵を受けたのです.それゆえ,他の人々も救われて恩恵を受けるよう執成しの祈りをしようではありませんか.かつてはキリストに背いたものが彼の愛を受けたがゆえに,その愛をもってわれらに背くものに祝福を祈りましょう.キリストの来臨にはじまる神の国に招かれるものには救いと裁きの意味がわかると思います.