十字架は持ち駒か

 罪のない神の子の十字架上の血によって罪ある人間があがなわれ,彼が復活なさったように人間も死から解放されるということが聖書的福音の中心ですが,十字架が会堂の屋根や説教壇に据えられたり,金の首飾りになったり,手先で十字を切ればよいとされたりしますと,十字架は偶像化あるいは形式化します.教義だけあるいは理論だけの十字架も危険です.

 戦前ですが,ある集りに問題が起こったとき,君と僕との間に十字架を置こうといって強制的に解決を迫った人のことを耳にしまして心を痛めました.ポケットから将棋の持ち駒を出して王手と来たような感じでした.戦後数年のころ,ヨーロッパであるキリスト教的な会合が開かれて日本からも指導者が招かれました折,十字架入りの会員章を胸につけて豪傑ぶりを発揮した人もあります.

 十字架がキリスト教の象徴になるに至った経緯は重要ですが,その意味が忘れられると危険です.とくに持ち駒のように利用されて,ゆるしを押しつけるのは自分を神とした傲慢な態度です.

 十字架が濫用され,悪用されるこのごろ,目に見えたり形式化されたりした十字架をのがれて,エルサレムの町の外でひとり静かに十字架につかれた救い主を仰ぎ見たく思います.彼の血にあがなわれるよろこびで結ばれる友とともに,彼の跡に従いましょう.今受ける苦難は彼の苦難につらなるという恩恵であることを思い,隠れたところで自分なりの小さな十字架を負いましょう.それこそ隠れたところにいます神によろこばれることであり,彼の国に招かれているという象徴です.