信仰と理性について |
信仰は人間の理性をこえるものであり,人間のことばでつくしえないので信ずる,あるいは信ずべきである,というのが普通です.それで信仰は理性と対立する感情の世界のものと考えられがちです.しかし感情の面だけならば未開人の宗教にも見られますし,無神論者が自らの感情に従うのとも共通します. 聖書は人間に避けえない死とその原因をなす人間性の弱さすなわち罪という事実と真剣に取り組み,それから人間を救う神のことを記しています.その記し方としては抽象的な理論よりも神を信じた人々の具体的事実を叙述する歴史的な形がとられていますし,書かれたのは古代ですからその時代的背景を反映しています.そこには感情の動きが活発ですが,死と罪という冷厳な事実と取り組むという点で聖書は理性的といえないでしょうか.死と罪が不快であるからとてそれを避けて一時しのぎをする方が感情的です.病は不快であるがゆえに医療を避けるのが理性的でないのと共通します. 砂漠と強国の圧迫に苦しみ,身近に迫る死と罪の問題を避けえなかった小さく弱い人が救いの神を信じた状況を想起しましょう.そして罪のない神の子の十字架上の死が人を救うという信仰が,感情的な人々には愚かであっても,神の知恵につながるということ(Ⅰコリ1:18以下Ⅰコリ1:18以下 <十字架のことば> 18十字架のことばは滅びるものには愚か、われら救われるものには神の力です。19聖書にあります、「わたしは知恵者の知恵を滅ぼし、賢いものの賢さを無にする」と。20どこに知恵者が、どこに学者が、どこにこの世の論客がいますか。神はこの世の知恵を愚かになさったではありませんか。21この世がその知恵のゆえに神を認めなかったのは、神の知恵によるものでした。それで神は信ずるものを救うには宣教の愚かによるのがよいとお考えでした。22実にユダヤ人は徴を求め、ギリシア人は知恵を欲します。23しかしわれらは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。彼はユダヤ人にはつまずき、異邦人には愚かです。24しかし招かれたものには、ユダヤ人でもギリシア人でも、キリストは神の力、神の知恵です。25それは、神の愚かは人間たちよりも知恵があり、神の弱さは人間たちよりも強いからです。 )の意味を考えましょう. 神への信仰は人間の理性をこえるものですが,神を信ぜざるをえない人の方が信じない人よりも理性的です.キリスト信仰が真の理性にもとづく科学を支えまた推進していることは歴史と現実の示すとおりであり,真の信仰が感情的な空想でなく未来への理性的な希望を与えるものです. |