無教会の安全弁

 このごろ耳にすることですが,無教会は遠からず危機か変化を迎えるだろうと一部の人々にいわれているそうです.カリスマ的(霊的)指導者の死と老化がその原因になるものともいわれています.

 しかしそうした予測や心配は今から50年以上前,すなわち内村先生がお元気であったころからすでになされていたのです.内村先生がなくなれば無教会も消えるだろうといわれたことはその反対となって今日に至っています.直弟子の時代から孫やひ孫の時代になりつつありますが,わたくしは特に心配していません.

弊害や危険も以前からありました.たとえば内村先生の再臨運動のとき熱狂信者が出たり,戦後の異言や神癒騒ぎのときもみ殺し事件が起きたりしました.しかしそのような時に目には見えぬ安全弁とでもいうべきものがありましたし,今もあります.それはローマ書1-2章ローマ書1-2章 前田訳:小見出し <まえがき><執筆の動機><異邦人への神の怒り> <ユダヤ人への神の怒り><知らずに守る律法><知って守らぬ律法> に書かれているような広い倫理感覚や良心です.理性のはたらきともいえます.これを推進する聖書の力,すなわち迷信をやめさせて義にして愛にいます真の神を指向するキリストの知恵です.

 とくに経済の清潔が無教会の強みでしょう.企業化した宗教の頭痛の種として経済がいつも問題となりますが,平信徒を中心とする交わりはその点でも安全です.

 西洋流の学問の物差しだけでは東洋のことはなかなか判断しにくいものです.無教会も今までの教派の分裂その他とは違った福音そのものの新しい把握と実践です.聖書はその方向を示しますし,聖書の真理が平信徒によって虚心坦懐に学ばれるとき,真のエクレシアは発展していくでしょう.