どろをかぶる

 人と人との間に問題があるとき,中に立って双方のいい分を聞き,平和のうちに事を収めうれば結構ですが,それがなかなかうまくいかないのが世の常です.うまくいかないのは自他の欲望がいろいろな形で衝突するからです。中に立つ人が上から圧力をかけて一時的に何とかなっても,圧力が減ったりなくなったりしますとまた欲望が動きだします.

 ここで別の形を考えましょう.中に立つのではなくて中にすわるか,できればそっと地下にもぐって,いろいろな欲望を和らげ,あるいは欲望を満たさせるようにできたらどうでしょうか.いわゆるどろをかぶるのです.低くすわればどろに近くなり,地下にはどろがたくさんあります.無神論や多神教の世界では自分が神になって顔を立てる人が多いのですが,真の平和は自分の顔をつぶすところに始まるのではないでしょうか.どろをかぶれば顔はつぶれます.

こういうことをすれば世の人から嘲られる場合が多く,寂しく苦しい状況に落ち込みやすいのですけれども,聖書を開きますと,こうした状況に追い込まれた人のための慰めのことばがなんと多いことでしょう.“平和を作る人”が貧しい人,悲しむ人その他とともにこの世的な幸福から遠ければ遠いだけ真の幸福があるというところに並べられているのは(マタ5:1以下マタ5:1以下 <さいわいな人々>
 1群衆がお目にとまったので彼は山に上られた。彼がすわられると弟子たちがみもとに来た。2そこで口を開いて彼らを教えられた、いわく、
 3「さいわいなのは霊に貧しい人々、
  天国は彼らのものだから。
 4さいわいなのは悲しむ人々、
  彼らは慰められようから。
 5さいわいなのはくだかれた人々、
  彼らは地を継ごうから。
 6さいわいなのは義に飢え渇く人々、
  彼らは満ち足らわされようから。
 7さいわいなのはあわれみの人々、
  彼らはあわれまれようから。
 8さいわいなのは心の清い人々、
  彼らは神を見ようから。
 9さいわいなのは平和をつくる人々、
  彼らは神の子と呼ばれようから。
 10さいわいなのは義のゆえに迫害される人々、
  天国は彼らのものであるから。
 11人々がわたしゆえにあなた方をののしり、迫害し、うそをついてあらゆる悪口をいうとき、あなた方はさいわいである。12よろこび、歓呼しなさい、あなた方の褒美が天にたくさんあるから。このように人々はあなた方より前の預言者たちをも迫害したのである。
),人と人との間を平和にすることには痛みが伴うことを示すものです.天に積む宝(マタ6:20マタ6:20 あなた方のために宝を天につめ。そこではしみも虫も損なわず、盗人が入り込んで取らない。 )もこの角度から理解できます.そして,イエスがどろをかぶって十字架につかれたのは真の平和のためであり,彼によって神との平和を与えられるものが彼にならう姿勢をとるとき,真の平和が与えられることがわかると思います.