弱さから強さへ

山上の垂訓(マタ5-7章マタ5-7章 前田訳:小見出し
<さいわいな人々>
<地の塩、世の光>
<律法の完成>
<殺人と怒り>
<不義と離婚>
<誓うな>
<さからうな>
<敵を愛せ>
<施しと祈り>
<主の祈り>
<断食>
<宝を天に>
<空の鳥、野の花>
<裁くな>
<求めよ>
<狭い門、偽預言者>
<「主よ主よ」というもの>
<岩の上か砂の上か>
)の中には右の頬を打つものにはほかの頬をも向けよ,敵を愛せよ,裁くな,等々のすすめがたくさんありますが,これらを命令と取りますと,せっかくの新約的な福音が旧約的な律法と変わらなくなり,実行できなくて責めつけられます.けれども,イエスの生涯を福音書全体にわたって見ますと,病気で弱っている人,貧しい人,律法を守りえない罪の人など権力者たちから見れば神に呪われた人々を相手に,神は彼ら弱いものから救いたもうというよろこびのおとずれを伝えられたのです.彼のすべての教えがその方向でなされていますので,弱さのゆえに行きづまった時にこのようなすすめのことばに接しますと,それを守らざるをえないよう導かれたことを感謝しうるのではないでしょうか.文法的には命令形でも,苦しめられて頬を打たれるとき,打ちかえすのではなくてもっと相手が満足するような道が開かれるものです.敵意をもつ人にも愛をもって接すれば神が周囲の人々を動員してくださってついには相手も和らぎます.裁くなも裁くことは必要ないからじっとしていてよいというふうに解したいものです.

 そうしますと,旧約的な律法以上に新約的な福音すなわち罪のある弱いものの救いが力を発揮するといえます.それは弱いものが弱いままで放って置かれず,キリストを通じて全知全能の神の力を受けて強くなり,神の愛に協力させていただくということです.光栄ではありませんか.福音は創造のみわざへの参加の招きです.この世は過ぎゆくものですから,あせらずたゆまず天来の福音によってすべてのことに対処しましょう.