新しい感覚への目ざめ |
日ごと聖書に親しみながら,身近に接する人々やひろく社会の動きを見ますと,自他の人間性の弱さに気づくことがよくあります.これは自らを高めて人々を裁くのとはちがいます.病人が自分や近くの病友の病状に関心を深めつつ,医者や看護婦の手当てを細かく見守り,医療費を含む物価の上昇に心を配るのと相通ずるものです.低く弱いものはとくに愛について敏感です. 自らの弱さに苦しみ,その弱さを弱い姿で十字架につかれた救い主によって包まれ,救いのよろこびを与えられますと,そのような神の愛をいろいろな角度から示す聖書がわかりはじめ,聖書の物差しで自分や近しい人々さらにこの世のことに対応する感覚が与えられてきます.たとえ自らの感覚が誤った場合でも,それは救い主のおかげでゆるされますし,同じ信仰の人から慰めや助けが与えられますので新しい道に進むことができます. 神の愛の光を受けますと,自らの暗い影が覆われるとともに,まだその光を受けていないこの世の影が濃くなるのでしょうか,光を受けたよろこびをこの世の人に分かつ意味での愛への願望も増してきます.救われてみますと,自分がどのような状態から救われたか,まだ救いを受けない人がなぜ苦しんでいるか示される場合がしばしばあります. 教義や礼拝の形式でなく,ひとりひとりが低く弱いところで聖書に親しんで新しい感覚に目ざめますと,全知全能の創造者の永遠の御業に参加する光栄が与えられ,自らが創造された意味を新しく示されると思います. |