永遠への輿論 |
心身ともに弱りはて,頼りうるのはただ十字架につかれた救い主という信仰生活がしばらくつづきますと,この救いのよろこびを他の人々と共にしようという意欲が生まれてきます.機会が与えられて聖書研究の集りに加わるのもひとつの道です。そこでは何年かの後にこの世ならぬ交わりに恵まれることがたびたびです.たとえその形が不完全でも,学んだ聖書の真理は自他の心に残ります. ただ,職場その他聖書を知らない人が多いところで信仰のことをいい,あるいは聖書にもとづく判断を実践しようとしますと,抵抗ないし迫害にあうものです.神の無条件の愛を受けて真理の力を示されるものは,新しい倫理感覚をもってこの世の悪に対処しますから,それがこの世で妨げられるのは当然です. そのようなとき,同信の友の祈りや慰めに力づけられることもありますが,何よりも聖書に記される具体的な事実の数々と,キリスト教成立以来現代にまでつづく歴史が励ましてくれます.20世紀になっても世界人口が40億近い中で信徒は10億足らずで少数であり,仮に全人類の投票が行われればキリスト教は否決されます.しかし聖書が真理を語るという事実は動きません.職場その他で少数意見であっても失望するに足りません. 限られたこの世の輿論に振り回されずに,事実と歴史にもとづく永遠への輿論とともに歩みましょう.そして,反対者へは愛をもって対応しましょう.勝利はわれらのものですし,その勝利は反対者が打ち負かされて滅びることなく,反対者もわれらと同じく永遠の世界に迎えられるようにと祈る愛の勝利であります.義のゆえに迫害される人々のさいわい(マタ5:10マタ5:10 さいわいなのは義のゆえに迫害される人々、天国は彼らのものであるから。 )をあらためて考えましょう. |