未完成の慰め

 人間が救われて永遠の命を与えられるのは人間の力で律法を行うことによるものではなく,神からの無条件の恩恵,すなわち神の子の死によるものです.これは神の無限の愛のあらわれであり,どんなに罪があっても救われるという福音です.

 しかし現実において罪は消えず,罪の結果としての死もあります.人間の救いが完成するのはキリストの再臨による神の国の完成のときであります.信徒は希望をもってその実現を待っているのであって,りっぱにできあがった状態にはありません.

 このように現実は未完成の時代であって,それゆえにどんなに罪があってもそれはゆるされる,という福音の面に注目しましょう.

 さらに,まだ福音を受け入れず,信徒を苦しめるものがあっても,今は未完成の時であるがゆえに彼らが救われるよう祈り,呪いに対して祝福をもって返すところに信徒らしい姿勢があるのではないでしょうか.

聖書の中で最も福音的なローマ書で裁きのことがいわれる(2:5以下ロマ2:5以下 5頑固な、悔い改めない心によって、あなたは神の正しい裁きの現われる怒りの日のお怒りを自らに貯えています。6神は各人にそのわざによって報われましょう。7忍耐をもってよいわざをし、栄光と誉れと不滅を求める人には永遠のいのちを、8私欲にかられ、真理に従わず、不義に従うものには怒りといきどおりをお与えになります。9苦しみとなやみはすべて悪をするもの、ユダヤ人をはじめギリシア人に、10栄光と誉れと平和はすべて善を行なうもの、ユダヤ人をはじめギリシア人に及びます。11神には偏見がないからです。 )のも,未完成の現実を示すものです.“われらは罪の体のあがなわれるのを待っているのであり,この望みのゆえに救われている”(同8:23以下ロマ8:23以下 23そればかりでなく、霊の初穂を持つわれら自身も、顧みてうめき、子とされることを、すなわちわれらの体のあがなわれることを待っています。24われらはこの望みのゆえに救われているからです。見える望みは望みではありません。見えるものを、そのうえ何で望みましょう。 )ともいわれています.

 現実に苦しみがつづきますが,未完成のゆえに苦しむこともゆるされるのは慰めです.完成への希望が与えられると現実が未完成であることがわかるともいえます.この希望に胸をときめかしつつ,“み国が来ますように”との主の祈りを唱えて日ごとの歩みをつづけましょう.